小さなデイサービスで見た光
閑静な住宅街に新しく建てられた小さな一軒家。
メールで伝えられた住所を何度も確認し、恐る恐る玄関のチャイムを押す。
すぐに耳馴染みのある声で応答があり、玄関ドアが開く。
ゆるやかなスロープを通り抜け、段差のない玄関で靴を脱ぎ、定員3名の小さなエレベーターに乗り込む。
エレベーターの扉が開いて私の目に最初に飛び込んできたのは、まぶしいくらいの光だった。
清潔な白い壁に大きな窓。
まだ3月の初めだというのに、窓から降り注ぐ陽光のおかげでデイルームは暖房がいらないくらいあたたかかった。
私と管理者と看護師。
その日集った3人で、私たちは小さなデイサービスを始めた。
私が大学を卒業して最初に勤めたのは精神科の病院である。
私はその病院で初めて採用された音楽療法士だった。
当時は音楽療法という言葉も珍しく、医療職における音楽療法士の立場はなんとも不安定なものだった。
大学4年間で苦労して取った資格を生かすべく、配属された認知症高齢者対応のデイケアで奮闘していたのだが、理想と現実のギャップに打ち砕かれ、3年勤めてすぐに退職してしまった。
病院を退職して3年が過ぎた頃、同僚だった看護師から新しく立ち上げるデイサービスを手伝ってくれないか、と打診があった。
「スポットで音楽療法をやれば良いのかな?」と軽く考え、「いいですよ」と軽く返事をしたら、正規職員としての依頼だったことが後で判明した。
バタバタと仕事の調整をし、心の準備も十分に整わないままに再び飛び込むことになった高齢者支援の仕事。
それがこのデイサービスの生活相談員という仕事だった。
私も管理者である元同僚も、医療や介護の世界に絶望していた。
だから、新しいデイサービスは今まで誰もが見たことがないものにしようと話し合った。
病院で働いた3年間、私の仕事は高齢者やその家族の闇を見つめる仕事だった。
闇と対峙し、そこに光をあてる仕事をしていたはずが、いつの間にか闇に飲み込まれていた。それを再び繰り返す気はなかった。
新しいデイサービスは明るかった。
建物自体が大きな窓のおかげで明るかった、というのもあるが、そこに集まる利用者やスタッフもみな明るかった。
私たちがこだわったのは、「介護施設に見えないデイサービスにする」ということだった。
デイサービスは自宅から通う介護施設だが、施設と名前がつく場所に行くことに抵抗のある高齢者は多い。
「私はそんなところに行くほど年老いてない」
「ボケてると思われるのが恥ずかしい」
施設に通うことは、そんな高齢者の尊厳を傷つけることにもなり得る。
私たちは、利用者の尊厳を傷つける要因となり得るものを徹底的に排除していった。
昼食はプラスチック製の器を使わず、野菜中心の彩り豊かなメニューにする。
おやつも医療や介護現場でよく見る駄菓子ではなく、洋菓子や和菓子などの見栄えの良いものをカロリー計算して出す。
制作物も「施設で作るものだから」「安く作れるものを」と妥協せずにクオリティを追求する。
家と施設の往復のみで運動する機会も少ない利用者が多いので、1日1時間は運動の時間を作る。
昼休み以外テレビは見せない。
毎日午前、午後と全て違う活動を行い、ぼーっとする暇を与えない。
スタッフの制服を廃止し、利用者と人として対等に向き合う。
朝、昼と掃除を徹底し、整理整頓と清潔をキープする。
徹底して介護施設に見えないデイサービスを追求していくと、利用者にも変化が現れた。
最初は服装や衛生面に気をつかわなかった人が、毎日服を着替えてくるようになり、化粧をするようになった。
そして、スタッフがジャージなど着ようものなら、ものすごい勢いで指摘してくるものだから、スタッフも服装や色合わせに気をつかわざるを得なくなった。
制作物のクオリティは回を追うごとに高くなり、ひとたびインスタに写真をアップすれば「いいね!」の嵐。デイサービス公式アカウントのフォロワーは1000人近くまで増えていた。
投稿に勇気づけられた、と、フォロワーから次々とプレゼントが郵送されてくる。
御年97歳にして1時間の筋トレメニューをこなす利用者が現れる。
部屋の中ですら何かにつかまらないと歩けなかった人が、30分の散歩をこなす。
しまいには利用者自身がデイサービスの営業を始め、
「友達に配るから、新しいパンフレットをはやくちょうだい」
とスタッフが急かされるようになっていた。
あのデイサービスで過ごした日々はあたたかい陽の光に包まれていたようなものだった。
高齢になっても、認知症になっても、光りかがやける。
その光は、ギラギラとしたスポットライトのような強いものではなく、シャンデリアのような華美なものでもない。
でもきっと、穏やかであたたかい、人生でかけがえのないものなのだと思う。
あの時見た光が、私の人生の中に再び訪れることを願うばかりである。