「素敵な」フランス刺繍
正直、完全になめていました。
手先は器用な方だし、この手の作業は今まで適当にやっててもなんとなく形になっていたし、何なら仕事で教えていたくらいだし。
だから、まあ、基礎だし学校の授業で習った程度のことが出来れば簡単なんだろうなって。
「これのどこが基礎なんだー!?」
と、レッスンクロスを壁に投げつけたくなる衝動を必死で抑えている今。私はフランス刺繍に挑戦している。
何故フランス刺繍なのか。そこに大した意味はない。
事の発端はこうだ。
昔から自給自足の生活への憧れがあった。自分の衣食住を自分でつくって管理する、という途方もない夢だ。
本屋に行けば、身体は自然と「暮らし系」と呼ばれる生活に関する本がまとめられた棚に向かっていたし、そのジャンルの新刊は全て網羅するほど情報を集めていた時期もあった。
しかし現状の自分を顧みると、自分の洋服や小物すらまともに作れない。靴下や洋服に穴が開けば迷わず捨てるし、ボタン付けすら心もとない。
衣食住のすべてを完全にアウトソーシングしている今の生活は、自分の夢に近づいているどころか、遠ざかる一方なのではないか。
ふとそう考えると、突然、今の自分の生活が、根無し草のようによりどころのない不安定なもののように思えた。
「自分の着る服くらい自分で作れるようになりたい」
そう思いつくとほぼ同時に、重大なことに気づいた。
「そういえば裁縫ってまともに習ったことがないんじゃないか」と。
家庭科の授業で小物やエプロン、クッションカバーなどは作った記憶がある。
しかし、丁寧さに欠けている自覚のある私は、その時も先生や教科書の説明をスルーしてノリとフィーリングで作っていたため、仕上がりも適当なものしか出来上がらなかった。
その後、仕事で高齢者施設のレクリエーションを担当していた時も、手芸はさんざん教えてきたが、よくよく思い出してみると、生徒のスペックの方が高すぎて自分は見本の写真と材料を提供していただけだったことに気づいた。
やばい。これでは小さな塔に閉じこもって年に1度現れる遠くの灯りを眺めるのを唯一の楽しみにしているラプンツェル(冒険前)と同じではないか。
暮らし系の本や雑誌を眺めてばかりで、一歩も塔の外に出ようとはせず憧ればかりを募らせている。
いかん。ゴーテル(偽りの母)もいないのに、自分で築き上げた高い塔の中でのうのうと暮らしてばかりはいられない。旅に出なければ!
というわけで、特にフリン(美青年)が現れたわけでもないが、私は自ら塔を出るための情報を集めだした。
すると、案外簡単に超初心者向けの裁縫おさらい通信講座を発見した。
「学校の授業で習っただけ、というあなたでも大丈夫!」
という謳い文句につられて、鼻歌をうたうように気軽に申し込んだ。
1月目は基本の縫い方編。これはかなり楽勝だった。
糸の通し方、玉結び、玉止め、なみ縫い、半返し縫い。小学校の家庭科の授業で最初に習うラインナップだ。
軽い軽い。
2月目。もうフランス刺繍である。
レゼーデージーステッチ、アウトラインステッチ、バリオンローズステッチ、ブランケットステッチ。
ペース配分おかしくないか? 確か、この講座は6か月続くはず。2月目にして、すでに家庭科の授業で習った覚えがないところまで来ているのだが。
文句を言っていても仕方がないので、レッスンクロスを握りしめ、説明書と顔を突き合わせながら、一つ一つのステッチを確認していく。
花びらや小さな葉っぱを刺すレゼーデージーステッチ、曲線を刺すアウトラインステッチなどは、初めて聞く単語だと思いながらも、ほうほうと納得しながら手を進めていけば良い感じに仕上がっていった。
問題はバリオンデージーステッチである。これはボタン付けの時にボタンに糸を巻き付けるのと同じ要領で、針に刺繍糸を12回巻いて針を引き抜けば、かわいいお花の刺繍が出来るらしい。
説明通りに針に刺繍糸を巻き付ける。説明通りに針を引き抜く。ぐちゃぐちゃ。
……おかしい。やり直し……たいのに、糸が絡まってほどけない! こんなの聞いてない。誰でも出来る超初級じゃなかったのか!?
1時間ほど奮闘して、絡まった糸を懇切丁寧にほどいてやり直し、またほどいてやり直し、というのを繰り返し、それでも見本よりはるかに不格好なお花の刺繍が出来上がった。
「やっとできた!」
そう思うや否や、今度はブランケットステッチという更なる難関が待ち受けていた。
ふちがかりのステッチを使って、車輪のような丸い模様を作るらしい。
この丸がまたもや曲者である。ちょっと針を刺す場所をミスったり糸を引く力加減を間違えたりしただけで、丸がいびつな形になってしまう。
「これで初級……」
もはや私の顔には、ちびまる子ちゃんでよく見る縦線が終始入りまくっていた。
結局、想定の3倍以上の長い時間を費やし、見本からははるかに劣る素敵なフランス刺繍が出来上がった。
まだ2月目である。
冒険ならまだ序盤、ラプンツェルがダムの水から逃れたあたりだろうか。
この冒険は思っていた以上にハードな道程になりそうだ。
「裁縫なんて軽い軽い。ちゃちゃっと作ろう」
と思っていた1日前の自分が恥ずかしくなった。
でも、これだけハードな旅だということは、6か月後には思ってもみなかった景色が見られるようになるのだろう。
「来月の課題は心して取り組もう」と私は気合を入れなおした。