音大生がこうもり傘を100本集めるおじさんにハマった話
当時の私は、ものすごく退屈していた。
物心ついた時から、いつも音楽の中にいた。
何が好きなのか? 何がやりたいのか? そんな疑問を持つ前に、目の前には鍵盤があり、無意識のうちに歌をうたっていた。
年齢を重ねるごとに、私を取り巻く音楽の世界はどんどん大きくなっていき、一日の生活の中に占める音楽の割合はいびつなほどに大きくなっていった。
それは得体のしれない化け物だった。それは半透明のビニールの膜のように柔らかく私の全身を覆い、静かに私を殺そうとしていたのだった。
音大に入学し、私の絶望は確かなものとなった。
小さな線と丸で真っ黒に埋め尽くされ、きれいに整頓された、新品の楽譜を胸に抱き、それを演奏するたびに、心の底から「つまらない! つまらない!」と小さく叫んでいた。どこに向けて良いのかわからない怒りばかりが蓄積され、半透明だったその膜はどんどん白く濁り、息苦しさに押しつぶされそうだった。
彼に出会ったのはそんな時であった。
いつ、どこで出会ったのか、何がきっかけだったのか、すでにもう覚えていない。
気づいたら彼はそこにいた。そして彼は最高にクレイジーだった。
私はどんどん彼にのめり込んでいき、周りが嫌がるのを楽しむかのようにいつも彼に寄り添った。
彼は私の紫のバラの人だった。
それが速水真澄のようなハイスペックイケメンなら周りも納得したのだろうが、彼は紳士の格好をした貧乏人だった。
あの時の衝撃は今でも忘れられない。
彼は私にさまざまなものをプレゼントしてくれたが、彼が私にくれた最初のプレゼントは、干からびたナマコの卵だった。
それが好意なのか嫌がらせなのか、どう受け止めたら良いのかわからなかった私は、まじまじとそれを見つめていた。その言葉のイメージに反して、卵はコロコロとかわいらしく、グロテスクさはなかった。しかしこれが何を意味しているのかがわからない。真面目に考えようと頭をひねっていた私の横で、彼は終始意味のないたわごとを吐き続けた。
彼は自由だった。
常識という枠を次々と取り払い、彼が美しいと思うもので周りを塗り固めていった。彼の判断基準は極めてシンプルだった。美しければそれが正解である。
彼が選んだものは息をのむほど美しいものもあれば、全ての人への嫌がらせにしか思えないものもあった。意味のないものをわざと選び、周りの反応を見て楽しむ。そんな人だった。
変人が多いと言われる音大の中でさえ、彼の存在は異端で、そして圧倒的だった。
私は時間さえあれば何度も彼からの手紙をむさぼり読み、彼からのプレゼントを眺め、彼の思考の全てを自分の中に取り込もうとした。
彼からのプレゼントが増えるたびに、私は痛快さを感じた。
次第に美しいだけでは飽き足らず、周りが嫌がるものや顔をしかめるような奇怪なものを自ら欲するようになった。
私を覆っていた半透明の膜はいつの間にか消え去り、私は大きな声で叫んだ。
私の生活から規則や常識、ルールなどという言葉はなくなり、全てが実験的で刹那的なもので満たされていた。
息ができる。そう思った。
彼に出会って私は、自由を手に入れた。
私は怒っていた。
そしてそれをぶつける手段を持たなかった。
彼は怒っていた。
そしてあたりかまわずそれをまき散らした。
彼に出会って私は、怒りをまき散らす術を手に入れた。
彼はもう隣りにはいない。
いや、そもそも最初からいなかった。
私の存在が彼の目に留まることはなく、終始彼は自由にふるまい、私は傍らでずっと恋焦がれていただけだった。
彼を縛ることなど誰にもできない。
だからこそ彼の存在はあんなにも美しく、どこまでも異様なのである。
彼の残した手紙に時々触れる。
彼がその時、確かに存在していたことを確認する。
街で、カフェで、家で、ふと彼のことを思い出す。いや、強制的に思い出させられる。
誰もが彼から逃れることなどできない。
私は、誰かの紫のバラの人になれるのだろうか。
こんなことを考えるだけで畏れ多い。
私は決して彼のようにはなれない。いつまでも恋焦がれ、実体のない紫のバラを追い続けている。
せめて彼の片鱗だけでも、そばにいる人に届けよう。
彼を取り込もうとした私と共に時間を過ごす人に、彼の自由な心が伝わるように。死んでなお、多くの人を魅了し続け、多くの人に気づきと変化を与える彼の大きさに気づくように。
幸い、私は今、ピアノ講師をしている。
今日も街で、「ジムノペディ」が流れている。