透明人間になったら
「もし透明人間になったら何をする?」
という台詞が、読んでいた本の中に出てきた。
「自分なら何をするだろう?」
結構真剣に考えてしまった。
一人で生きる、ということは、半分透明人間になるようなものだ。
一人でいる時、私は自分の存在を証明することはできない。
自分の存在を証明するために、私は働き、人と話し、お金を払って消費している。
もし、透明人間になってしまったら、その存在の証を失うことになる。
それは恐怖でしかない。
最初はこう考えた。
「おいしいものを食べる?」
食にあまり興味がない質なので、普段の食事は質素である。
最近は、鍋にハマっているので、毎日鍋ばかり食べている。
でも、透明人間になれば、お金を払わずにおいしいものが食べられるんじゃないか?
作り置きより作りたての料理の方が美味しいのは間違いない。
有名な料理人の作りたての料理をかすめ取る。こっそり奪って食べる。
そこまで、想像して、何かが違うことに気づいた。
高級な料理は、その料理自体が美味しいのはもちろんだが、その盛り付けや接客、店の内装などを含めた、トータルのサービスに私たちはお金を払っているのだ。
料理だけをかすめ取っても、それを口にした時の満足感は半減するだろう。
さすがに透明人間用のテーブルまでは期待できない。
次に、こう考えた。
「嫌いな人を痛めつける?」
面倒だ。自分の存在がその人に認識されないのであれば、透明人間であり続ける限り、その人から実害を受けることはない。
過去の恨みを晴らす、という考え方もできるが、そこまで人に執着する質でもない私は、嫌いな人のことをずっと考えてその人のために自分の労力と時間を費やす方がもったいないと思ってしまう。
最後にこう考えた。
「ほしいものを手に入れる?」
今、ホームベーカリーが欲しいと思っている。
最近、毎朝のように近所のパン屋でパンを買って食べているからだ。
焼きたてのパンを食べる時が至福の時である。
家で自分で簡単に作れたら、わざわざ店に出向かなくても、毎朝、焼きたてのパンが食べられる。
ホームベーカリーを手に入れる。
そう想像したところで、問題点が出てきた。
手に入れたら自分で材料を用意して作らなければならない。
メンテナンスをしなければならない。
置き場所を作らなければならない。
部屋が狭くなる。
材料を揃えるのにも、作るのにも時間がとられる。
ネット通販が使えない。透明だから。
今、手に入れていないのには、それなりの理由があるのだ。
持っていてプラスにしか働かないだろうものは、もうすでに手に入れている。
結局、ここまで想像して、最後に
「研究機関に駆け込み、泣いて訴えて、元に戻してもらう」
という、何とも夢のない考えに至ってしまった。
子供の頃を振り返ってみると、大人しい子供だった。
自分の「存在感のなさ」が嫌で、主張の強い人間になろうとしてきた自覚がある。
このことを考える時、いつも頭に浮かぶのが自動ドアだ。
私は今でも、自動ドアに認識されないことが多い。
立つ場所が悪いのか、身体が小さい(でも大人の大きさなのだが)のが悪いのか、間が悪いのか。よくわからないが、とにかく自動ドアが開かなくて立ち往生することがよくある。
その時、いつも小さな苛立ちとやるせなさを感じる。
小さな子供が自動ドアで遊ぶのも、その存在が認識され、自分の動きに反応してくれるのが嬉しいからだろう。
私たちは、自分一人ではその存在を認識することはできない。
自分の存在によって反応するヒトなりモノなりがあって、初めて、自分がそこにいることが証明されるのだ。
透明人間になるのは、案外簡単なのかもしれない。
家を手放し、仕事を手放し、人付き合いを手放し、持ち物を手放し、欲や執着を手放す。
山奥にこもり、出来る限りのヒトやモノとのつながりを絶って、隠者のような生活を送る。
自分がそこに住んでいた痕跡は残ってしまうが、そもそも人や動物が寄り付かないような場所に住めば、それを発見される可能性も低くなる。
なにも生み出さず、言葉も発さず、ただただ毎日を平穏に暮らす。
そこまで想像して、また問題点に気づいた。
人や動物が寄り付かないところってどんなところだ?
おそらく人が住めないような、危険なところ。
断崖絶壁、土砂災害警戒区域、砂漠……。
透明人間になるは良いが、生存確率はものすごく低そうだ。
毎日を平穏に暮らすことなど、とうていできないだろう。
結局、人は透明人間にならないように生きているのである。
今日も誰かに見られ、誰かと言葉を交わし、その存在を互いに確認しながら生きていく。
そうやって、今日もまたそこそこ平穏な暮らしを手に入れている。